最近接発達領域(ZPD)について

さいきんせつはったつりょういき, Zone of Proximal Development最近接発達領域(さいきんせつはったつりょういき)とは、ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキー(L.S. Vygotsky, 1896-1934[写真])が提唱した、他者(=なかま)との関係において「ある ことができる(=わかる)」という行為の水準ないしは領域のことである。「発達の最近接領域」と呼ぶ専門家もいる。
引用元:池田光穂による解説「遊びは最近接発達領域を創造する。遊びの なかでは,子どもは絶えず,その平均的年齢よ りも上位におり,普段の日常の行動よりも上位 にいる。遊びのなかではこどもは頭のなかで, 自分自身よりも年長であるかのようだ。遊びは 凝縮した形で,虫めがねを焦点化するように発 達のすべての傾向を含んでいる。子どもは遊び のなかで,自分の普通の行動の水準に対して飛 躍を遂げているかのようである。発達に対する 遊びの関係は,発達に対する教授-学習の関係 に匹敵するものと言わなければならない。遊び の背後には,欲求の変化と,より一般的な性格を もつ意識の変化が存在する。遊びは発達の源泉 であり,最近接発達領域を創造するのである」
ヴィゴツキー「子どもの精神発達における遊びと その役割」(1933)「足場かけ(Scaffolding)」
最近接発達領域に関する研究において,その 議論を一歩進めたのが,1970年代後半に,ブル ーナー(Bruner, J)らが提唱した「足場かけ(Scaffolding)」と呼ばれる概念である(Wood, Bruner & Ross, 1976)。学習者の周りにいる援助 者が,課題解決のモデルを示したり,課題解決 のために注目すべき特徴を示したりすることによって,子どもはひとりで解決できない,より 高次の課題を遂行できるということを指摘し た。このような最近接発達領域における援助の あり方を,「足場かけ」と論じたのである。最 近接発達領域の概念における教育のあり方を一 歩推し進めた「足場かけ」は,その後の最近接 発達領域に関する研究の前提となる概念として 今日では広く認識されている。

Wood ら(1998)による「足場かけ」のプロセスの細分化
 レベル 0「援助 なし」
 レベル 1「一般的な言語的な働きかけ」
 レベル 2「特別な言葉かけ」
 レベル 3「素材 の指示」
 レベル 4「素材の準備」
 レベル 5「使い方の演示」

Stone(1998)による4分類
 第一に,その子どもがど のような課題に取り組むことが望ましいのかを 方向づけ,奨励すること。
 第二に,学習者の現 在の理解や熟達の状況をアセスメントし,どの 程度の援助が必要かを見積もること。
 第三に, ある一定の幅を持ち,学習者に選択の余地を残 しながら,具体的な援助を行うこと。
 第四に, 学習者の遂行状況に応じて,援助を減らして独 力で解決可能な状況へ導くこと。

引用元:保育における最近接発達領域に関する検討(岡花祈一郎1・多田幸子2・浅川淳司3・杉村伸一郎1)

これからの教育とは? 親として考える。

wikipediaによると教育(education)とは「人の持つ諸能力を引き出すこと」とされています。
また、リチャード・ピーターズによっては以下のように定義されています。

  1. 教育内容 – 価値あるものの伝達
  2. 教育効果 – ものの見方が広がる
  3. 教育方法 – 学習者の理解を伴う

まず、1の価値あるものの伝達というこの「価値」は、長い間「普通」という言葉でひとまとめにされてきましたが、現代では個々人において非常に多様化し個別化しているので、それぞれの児童生徒において異なるということになります。

つまり、教育内容は個々人において異なるということになります。次に2の教育効果ですが、日本のこれまでの教育について考えると「ものの見方がが狭まる」ことはあっても「広がる」というイメージはあまりないのではないでしょうか?

 学校で用意される問題にはあらかじめ用意された答えがあり、それを暗記するか、または出題者が想定したように答えなくては点数が取れないような仕組みがあまりに長く深く続き、教育プロセスに深く影響したために必要以上に考えないような抑制が働いていたせいかもしれません。

いずれにせよ日本の学校においての教育効果はテスト偏差値などで測定可能なものをもっとも重要な効果として求めているので「ものの見方が広がる」ような効果はこれまでの教育方法ではあまり期待出来ないと言えるでしょう。

そしてその教育方法についても、日本のこれまでの教育においては学歴社会の要求により相対的に測定比較が可能な学力というモノサシを維持するためには系統学習(学問の体系的な構造に従って系統的に教育を行う)が中心になってしまうため、個々人が自発的に課題を見つけその解決を通して学習する(より個々人の価値に近づけて、かつものの見方も広がる)問題解決型の学習方法には向けづらいと言われています。

 バラバラの方向でバラバラの問題とバラバラの答えを見つけられては集めてテストで点数をつけて順番をつけるのは困難ということですね。つまり1、2、3、いずれにおいても「これまでの日本の教育」というものが完全に行き詰まっていることは明らかです。また、教育というものには個人に知恵や考える力を与えるという側面と、国や社会が個人をうまく利用するために作り出している側面があります。

「教育とは誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである」という定義をしている学者もいます。
教育は他者に対してなされる行為であり、教育がなくとも学習は可能である。(広田照幸(2003)『教育には何ができないか-教育神話の解体と再生の試み-』春秋社 pp. 8-10)

親として学習は必要であっても、国や社会に意図的に動かされるための教育は必要でしょうか? それよりは「社会を動かす」ための学習の方が子供の人生には役に立ちそうです。

少なくとも公立の小中学校がそのような方向になるようには見えませんし、当然国として積極的にはなれないのではないでしょうか、国としては「教育」が必要なわけですからね。

ただ、子供たちや親が公教育から離れていかないような努力はするのだろうと思いますが、中身が変わることは期待できませんし、なにしろ時間が間に合いません。

とはいえ公教育を脱出し、高額な費用と時間や距離の問題を解決して私立の教育を受けさせられるのはごく一部の限られた親たちです、多くの親は時間的コストと金銭的なコストそして自己の能力と子供のシアワセを天秤にかけなくてならなくなるわけですね。

これからの教育に必要なのは子供たち一人一人のもつ特性や価値観に出来るだけマッチした「教育内容」これはそれを見つけるためのプロセスや技術も必要となります。

そしてそのそれぞれの教育内容にマッチしていてなおかつこどもが自発的に課題を見つけて意欲的に学習できるような問題解決型の「教育方法」ですね。

当然それにより得られる「学習効果」は間違い無いでしょう。

親として、答えは見えてきましたでしょうか? 
当校ではICTやAIを活用して登校での教育プロセスはもちろん、在宅での教育システムの構築も進めております、具体的な進め方や方法については、個別にご相談ください。

いろいろなオルタナティブ教育

現行の学校に代わる次世代の教育=オルタナティブ教育のすべてを解説します。

モンテッソーリ教育

子供の中の自発性を重んじ、子供の知的好奇心が自発的に現われるよう、子供に「自由な環境」を重要視。能力の獲得には、最適な時期「敏感期」があるという考え方。 モンテッソーリ形式のクラスは3つの年齢グループが混ざっており、自分と同い年の子供達に混じったままで学習進度を上げる機会が与えられる。モンテッソーリは非常に自由な学習環境を与えるため、早ければ平均の倍のスピードで学ぶギフテッドの子供に適している。

サドベリースクール(デモクラッティックスクール)

根本にあるのは「子どもは生まれながら好奇心を備えていて、生きていく上で必要のあることは自分で学んでいくことができる」という考え方。 生徒はルールの範囲内で自由に行動できる、またそのルールを学校参加者自身(主に生徒とスタッフ)により決定していく。それにより生徒は学ぶべき内容を学校から押し付けられるということがなく、自らの好奇心のおもむく事をルールの範囲内で追求することができる。また子どもたちを「クラス」に分け、「クラス」単位で行動するように強制することはしない。 別名はデモクラティックスクールだが、 サドベリースクールのモデルとは違った形態のデモクラティックスクールも存在する。

フレネ教育

子どもたちの生活や興味から出発した自由な表現による学習を重視しており学校から出掛けて近くの森や村を散歩しながら学ぶ「散歩教室」、「自由作文」「学校印刷所」「学校間通信」などの実践が行われている。学習は個別化されており自分で計画を立て協働しながら学習を進めるという方法を取っている。また学年ごとにクラスが分けられているということはなく、子どもたちが異年齢集団の中で助け合ったり学び合うことを学ぶ。

イエナプラン教育

子どもたちを『根幹グループ(英語ではファミリー・グループを訳されることが多い)』と呼ばれる異年齢のグループにしてクラスを編制したことに大きな特徴がある。 学校での活動は、会話・遊び・仕事(学習)・催しという4つの基本活動を循環的に行う。

ホリスティック教育

人はみな、地域や自然界との関わりを持ち、思いやりや平穏などの精神的価値観を追い求めることで、自己の存在証明、人生の目的や意味を見出していくという考え方、人々の内に秘められている命への尊厳と、学ぶことに対する大きな喜びを引き出していくことを目指している。ホリスティック教育という用語は、オルタナティブ教育の中でも、より民主的で人道的な性格のものを意味して用いられる事が多い。

シュタイナー教育

教育という営みは、子供が「自由な自己決定」を行うことができる「人間」となるための「出産補助」であるという意味で、「一つの芸術」であると考えられている。芸術を重要視、魂の意志・感情・思考(表象活動)の発達にふさわしい時期に能力を伸ばす「真・善・美」を全身を通して理解し、自由で自律的に生きることのできる人格の育成を目指す。

ギフテッド教育

ギフテッドやタレンテッドつまり先天的に、平均よりも、顕著に高度な知的能力を持っていると判明した子供の教育に用いられる教育手法。クラスは通常より難易度を増したもの、より掘り下げてあるいは進んだ内容を学ぶもの、課外教材を用いた定期的に行われるセミナー形式のものなどがある。

ホームスクーリング

学校に通学せず、家庭に拠点を置いて学習を行うこと(在宅教育)。教科書などを使い保護者等が教師役をつとめる、あるいは保護者監督のもとインターネットで在宅講座を受けるラーニング・アット・ホーム、他のホームスクール生徒とともに講義を受けるアンブレラ・スクール、子どもの自主性に任せて本人の学習する意欲・興味に従って教育を進めるアンスクーリング(ナチュラル・ラーニング)等がある。 家庭を拠点としながら大部分の時間を戸外の教育機関で過ごす場合は自宅ベース教育(home-based education ホーム・ベイスド・エデュケーション)と呼ばれる。

「不登校」についての当校の基本的な考え方

「不登校」についての認識は、保護者や公教育の現場、不登校児支援を行なっている公的機関やフリースクールなどでそれぞれ異なりバラバラです。 フリースクールや相談サービスなどにおいては、ある種のビジネス的配慮からこうした根本的な考え方をまったく提示していなかったり、オブラートに包むようにボカしてしまっている事が多いようです。
しかしながら、親が大切な子供を託す上で「問題」に対する理解と認識の一致ほど大切なことはありません。
ここでは、当校の不登校および関連する事項についての基本的な認識と考え方の方向性を提示したいと思います。

不登校は問題(良くない)行動か?

不登校は良くない環境などに対する子供達の正常な反応であり、まったく問題にするべき行動ではありません。 むしろ私たちは、あらゆる重篤かつ未解決の問題を抱えた今の「学校」にまったく違和感を感じず、何も気づかない子供達の方をその将来も含めて心配してあげるるべきではないかと考えています。
文科省も平成28年9月の不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)において”不登校とは,多様な要因・背景により,結果として不登校状態になっているということであり,その行為を「問題行動」と判断してはならない”としています。

不登校の原因は学校か?子供か?家庭か?

少なくとも日本においては多くの場合、不登校の原因は学校と家庭にあります。
学校は、昨今すっかり歪んでしまった日本社会の縮図であり、残念なことに教育現場は不正・不公正・不透明・責任逃れとイジメの温床となっていて、世の縮図どころか悪い部分を濃縮したような環境になってしまっています。 戦前から「富国強兵」の柱として構築されてきた日本の学校教育は、戦後から高度成長期にかけて「経済成長」の柱として、従順で均一で行儀の良い、つまり集団として扱いやすい人材を「大量生産」してきました。 またピラミッド型組織を作る基準として「成績・学歴」が重視されテストの成績が良ければ、良い大学に入れて、良い就職や組織内での出世が確実になるという「学歴社会」という「虚構」が長い間続きました。 バブル崩壊から数年で「学歴社会」から「能力社会」へと大きな変化が始まり、ごく一部(数パーセントの大企業)を除いて「学歴神話」は崩壊しました。
どんなに勉強を頑張っても「学歴」の恩恵を得られるのは有名大学に入れる数パーセントの学生で、あとはその踏み台となるしかない状況、つまり東大など有名大学のランクのために下々の大学があるような構造になっていて、負け組に残るのは潰しの効かない学歴だけ、昔のように下々には下々のそれなりの就職口などもうないのです、大学卒でも5人に1人、大学院修了でも10人に1人は非正規雇用、たとえ正社員になれても職場の状況は昔よりも過酷、就職して3年以内に30%が退職し、10年以内に60%が退職しています。 チャンスを掴み生き残れるのは「勉強以外の何か」をしっかり持っている人、企業はそれを見極めて採用するようになっており、近年Apple社やGoogleなどの先進企業は次々と「学歴」を採用条件から外しています。
 「学歴」を役に立てられるのは一握りの勝者だけ、それでも「かけっこ」と同じで、入賞者の1番2番3番のためには4、5番とビリなどの敗者が必要なのです。 ビジネスの世界では「競争」は最終手段であり、競争の激しい市場(レッドオーシャン)は絶対に避けるべきとされています。 なぜならそこには「負けるリスク」だけではなく「無駄な消耗」があるからです。 利口な経営者は競争のない(ブルーオーシャン)かつ自分の得意なフィールドでビジネスを仕掛けます。 一流のコンサルタントが「このジャンルはたくさんの企業が参入してめちゃくちゃ競争激しいですけど、御社もぜひ挑戦してみてはどうでしょうか? みんなやってるからこっちで間違い無いですよ」なんて絶対言いませんよね。こんなことは素人でもわかる話です。 このような時代に大半の子供達を共通入試試験によって画一化された学力競争に十把一絡げに追い込み。順番争いをさせることがいかに馬鹿げているか。
その結果はどうなってしまっているか。十分に情報収拾をしている親であれば少しは理解していると思います。
それでも「学歴神話」を信じている親や教師たちは勉強!勉強!と子供達を追い込んで行きます。 効率よく子供達を追い込むためには心理的に
 1、みんなと同じようにしていないとまずい。(負け組を含め、多くが参加しないと競争状態にならないため)
 2、その中で出来るだけ競争に勝たなくてはならない。(競争状態を維持するため)
と思い込ませることです。
 学校にはそういう心理状態を作るためにいろいろな仕掛けがあります。 教師による学級内での比較、宿題、定期テストや運動会などでの競争と順位づけ。 朝礼から始まる団体行動、運動会での一糸乱れぬことを是とする団体競技、例を挙げればキリがないくらいですが、これらはとても複合的に作用して強力な効果をもたらします。
たとえば、学校に遅れてくる子や宿題をしない子がいた時に最初に文句をいうのは教師では無く同級生たちです。 集団による異物排除の反応による「相互監視社会」です、これが働くことによって教師たちは目の届かないところでも生徒を効率よく管理することができます。
すべての学校には「みんなと同じようにしない」「テストの成績に興味をもたない」「平気で遅刻や欠席をする」「先生に怒られてもあまり気にしない」といった集団や競争から外れていこうとする子に対して「自分だけ」とか「ずるい」とかいう反応が自動的に起きる「場」が形成されていて、小学校2〜3年から始まり高学年になるにしたがって強化されていきます。 これが日本の学校の仕組みが生み出す「相互監視社会」=「イジメ社会システム」です。 なので日本の学校が「ウチの学校にはイジメはない」とか言ったらこれは全部ウソなんです。 「イジメ社会システム」なしには日本の学校も学力競争も成り立たないのですから。 もし子供達みんなが自由になって自分の得意分野と興味分野に向かいはじめたら「学力競争」は崩壊してしまいます、高校受験という関所に「内申書」という脅迫材料があるから言うことをきいていた子供達はどうするでしょうか? 学習の成績や進学率、合格率などを基準にお互いを評価していた教師の世界はその基準を失いますね。次世代の基準づくりは表面上は進んでいるかのような話は流れていますが中身はまるで変わっていませんからそうなるともう教育現場はガタガタになってしまいます。 だからこそ職員室の中ですら正義が通用しないような状況が必死で守られ、未だ変わらないわけです。
では、不登校となる子供達はどういう子供達か? 
まずタイプ1は、学校側の仕掛ける「洗脳」が効かない純粋にマイペースな子供たちです、このタイプの子達は周りに合わせなくてはならないという意識にならないので、あちこちでハミ出して、多くの場合は「自分はダメな人間なんだ」と思わされたり、イジメの対象になってしまいます。
タイプ2は、運良くこの学校社会の「異常性」に気づく感性を失わずに育った子供たちです。 「集団行動」「競争」「相互監視」こういった異様な社会に違和感を感じたり、そこに居ることを辛く感じたりして学校に行きたくなくなるというケースです。
いずれにせよ、原因は「学校のもつ特殊な社会性」つまり「集団性」、「無駄な競争」、「相互監視社会」=「イジメ社会システム」などにあるわけです。
ここでは、全体像をざっくりと説明しましたが、これだけではうまく伝わらず異論を感じる方もいらっしゃるかもしれませんので、また別のドキュメントで一つ一つについて詳細に書きたいと思います。

不登校は、後ろ向きか?無気力やさぼりではないか?

不登校は、それを決めた子供にとっては明らかに「前向きの判断」です。 親の生活に依存している子供にとっての「学校」には、大人になってからの職業選択のように多様な選択肢がありません。 なので、自分に正直に生きるには「とりあえず行くのをやめる」という選択しかないことになります。 最初から親の賛成や理解がある場合は稀ですし、たとえあったとしても他の人たちとは異なる「不登校」という道を選択するにはそれなりの「気力」が必要です。
なので、「無気力」だから学校に行かない、というのは完全なる誤解です。 周囲の賛成や理解が得られず、考えや行動を否定され続けると誰でも元気が無くなります。 教師や学校に行かせたい親の価値観でそれを一方的に無気力やさぼりと断じてしまっているだけです。
本人が判断に迷ったり、親の賛成が得られず、時間がかかってしまった場合は、元気が無く無気力に見えるかもしれません、もちろん精神的・肉体的に休ませてあげる必要はあると思いますが、十分に休養して「元気」が戻ったからといっても、子供にとってその「気力」は学校に戻るためにあるものではないのです。

学校に戻すべきではないのか?

元々の学校に戻るのが良いのか、それ以外の場所で学習するのが良いのか? これは不登校の原因と本人の自覚によりますが、いずれにせよ本人の判断と行動に任せるべきです。 もちろん、親としても最善の方向を考えて提案していくことは良いことですが、根っこの部分で相互理解が出来ていないと、容易にエスカレートし、自殺や引きこもり、DVなど家庭内の問題に発展する恐れがあります。(このトピックは編集中です)